一分の救い(ノンフィクション風の物語)⑪
人の生命をあずかる病院ほど人間模様が浮き彫りになる場所はない。
重症患者の病棟となればなおさらだ。
様々な患者が命と向かい合い、医師も看護師もいろいろである。
飯屋の一件依頼、できるだけ客観的に現状を受け止めるようにと自らに言い聞かせてみると、感情的になっていた頃とは違う側面が見えてくる。
患者に対する姿勢やもっといえば仕事に対する哲学といったものまで読み取れるようにもなる。
丸半日を1年以上通い続けたのであるから、新人の看護師より人間の細部が見えているかもしれない。
自分から見ると「物足りない」と感じられる医師や看護師も少なくはなかった。
ただ、母は我が身を預けている覚悟からか、どんな人たちの指示も同じように真剣に受け止めていたように思う。
母は、1度目の危篤状態まで身体から管が抜けたことがない。
点滴用の穴が胸にあいていて、腹水を抜く穴が腹部に空いている(それ以前に手術の傷跡がまともにふさがっていない)。また、トイレには他力を借りても行けないため、排尿用の管は膀胱から袋に24時間つながったままである(これは、尿の量と組成をリアルで検査する必要があるためである)。
便については、看護師を呼んで携帯用の便器にしていた。
その処理の仕方も看護師によってまちまちだ。
単なる排泄物として扱う人がほとんどだったが、その中にひとり、顔を近づけてよく観察をしてくれる看護師のAさんがいた。
Aさんは便の状態が良いと、まるで宝石でもみつけたかのように、
「わあ!良いのがでましたよ~。これなら大丈夫ですよ!頑張りましょうね~」
と母を励ましてくれる。
便に限らず状態が芳しくないときに、医師に病状を伝えるときでもとても安心感のある言動をする人だった。
1度、母が寝ているときに夜中に点滴を変えに来たので、
「すごく助かっています。たいへんな仕事ですけどやりがいがおありでしょうね。」
とAさんに声をかけたことがある。
すると、Aさんは
「患者さんに安心してもらえるようには心がけています」
とだけ答えた。
きっとこの人は「良い便」が出たことだけが良いニュースとなるのであれば、それを患者と家族に大きな声で伝える。
そんな些細なことでも人を救う可能性があるのだということを知っているのだと感じた。
後に母は1度目の危篤を乗り越え「Aさんを息子の嫁に」と言い出すようになる。
(つづく)