一分の救い(ノンフィクション風の物語)【完結】⑮

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横たわる母を一瞥した瞬間にどこからかあきらめの声が聞こえてきた。
これまでのストレスと身体のこわばりが抜けていき軽い目眩を覚える。
父は相変わらず声をかけ続けていたが、私の方を向いて「どうだろうか」と無言で訴えてくる。
私は何もいえなかった。
1回目は父の呼びかけに母は応じて目を覚まし、奇跡的な回復をした。
だが今度はその声も届かないだろうと実感していた。
そして「もう母はここにはいないのだ」という虚脱感に襲われた。
「この母に何と最後の声をかければよいのだろう」と自問自答したが、それ以前にその意味があるのかとも思った。
私は、気持ちを落ち着けるために一度病室を出た。
すると、その瞬間、にわかに医師団の動きが慌ただしくなった。
心停止したという。
心臓マッサージや心臓に強心剤を直接注射するなどの延命措置が取られ始めた。
私はこのとき戦慄に近い畏れを感じた。
「母はベッドにはいないがどこかで見ている」と感じたからである。
思えば、試合で全く格下の後輩に本気で破れたことや、出会うはずのない後輩と普段歩かない場所で出会ってその人から危篤を知らされたり、最後に到着した私が病室から出た瞬間に心停止するなど、偶然ではありえないことが多々起こっている。
これは、最期を迎える母の采配だったのだ。

当時は、延命措置の有無を家族に問う前に「できるだけ生かしておく」ということをするのが礼儀のごとく病院は行動するのが当たり前だった。
しかし、家族は早々にその中止をお願いした。

享年54歳。
母は逝った。

母の最期は兄だけが居合わせた。
兄は、父にかわって工場を切り盛りしていたので、私や父ほど病院に詰めることができないでいた。
この日は日曜日であったため、兄が一番に病院に行ったのだが、そのとき母はすでに吐血しながら苦しんでいたという。
そして、処置をするからと病室から出されて、その後意識を失った。
後に考えれば、最期を兄が看取ったというのも母の采配のように思える。

本当に気が狂わんばかりの地獄のような1年数ヶ月。
だが、家族にとっては精神はそのままでは収まらい。
何がこの経験を呼んだのか。
判断が間違っていたのではないか。
自分が死なせてしまったのではないか。
その後も、日々罪を背負いながら生きている。

苦悩しているときは他の感覚が鈍り、客観視もできなくなる。
ただ、こうして数十年して振り返ってみると、救いはいたるところに転がっていた。
それはほとんどは一分にも満たない人との交流からである。

急遽血液が必要になったとき、大学の生協で同級生に声をかけたら、それほど交流もない後輩も含めて、あっという間に10人以上が集まった。

絶望的な状況で排泄物を宝物のように扱って一縷の望みを母と家族にくれた看護師のAさん。母はAさんを兄の嫁にと考え本気で話をしていたという。死後、Aさんからご丁寧なお手紙を頂戴した。お断りのお手紙だったが、これは私たちの心に響いた。

一度目の危篤状態のときに、私の試合が終わるわずか数分の間にすべての状況を整えバイクで病院に送ってくれた後輩のK。

会話をしたこともないのに最悪の状況を察して、麦茶をそっと運んでくれた飯屋のオヤジ。

2度めの危篤のとき、走って研究室に伝えに来てくれた守衛さんとぎりぎりまで私を待っててくれた後輩のO。守衛さんと私は面識もない。タイミングが何分か違えば、私は病院へ行けなかった。

喪中の葉書を送った後、葬式の連絡が行き届かなかった人からたくさんの電話や手紙も頂戴した。

救いを与えてくれた人たちは救おうと思って行動してくれたわけではない。
しかし、わずか1分間の行動が当事者たちの精神を救うこともある。
これは命のかかった極限状態であるからこそできた体験でもあるのだ。

これからも私の罪は消えない。
罪ではないとアドバイスをくれた人もいたが、これは行動ではなく心が決めることなので致し方ない。

たとえ1分の行動でも一瞬の出会いでも他の方の救いになれるよう心がけることしかできないのである。
(了)

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