一分の救い(ノンフィクション風の物語)②

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覇気がなく「だるい」を口にすることの多くなった母が検診を受けたところ「要医療」という判定が戻ってきた。
検診の判定区分は大きく「異常なし」「要観察」「要精検」「要医療」に分けられる。
要観察までは、直ちに病院へ行く必要はない。
要精検は精密検査が必要、要医療は直ちに治療が必要という判定だ。
検査機関から紹介状を預かり、大きな総合病院であるJ病院を受診した。

結果、即入院加療が必要。
病名は初期の「肝硬変」。

精密検査が必要で、当時としては最先端の技術といわれていたCTや造影剤を使った検査が行われた。
そして、肝臓に小さな癌が見つかった。

昭和の後期、癌はどんなものでも「不治の病」というイメージが定着していたので、本人に告知をすることはほとんどしなかった。
事実、母の主治医も「患者に心配させてよいことはひとつもない」というスタンスだった。

主治医の話によると「原発性の癌(肝臓でできた癌)で他に転移をしているとかではない。おそらく、長引く肝炎によって肝硬変を引き起こし、それが引き金となって肝癌を併発した」ということである。
「癌がなければ安静と点滴治療によって内科的に経過観察をさせるが、癌が見つかったため、外科的な治療も考える」という話をされた。
肝炎の原因については、母は酒を一滴も飲まないし、規則正しい生活をしていたことからウィルス性慢性肝炎と診断された。当時はウィルス性慢性肝炎というとB型肝炎のことを指したが、ウィルス性が疑われるも同じような症状のもので、まだウィルスが見つかっていない肝炎を「非A非B型肝炎」という名称で呼んでいた。今は第3のウイルスが見つかってC型肝炎と呼ばれているものがある。
母はB型の抗体は発見されなかったので、非A非B型肝炎だろうということだった。

主治医のいう外科的治療すなわち「手術で癌を取り除く」という治療方針は家族としても理解ができたが、当時「肝癌の手術は原則的に不可能」ということを巷の噂で聞いていたのでそれを尋ねると、確かに「まだ例はほとんどなく、手術できる医師も限られている」という返事だった。
「ただ、癌がある限り放っておけば進行する。最近では、外科的な治療も可能になってきたので切ってみてはどうか」と手術を進められた。
今のように、内視鏡などという言葉は聞いたこともなく、行うとすれば大手術だという。
「手術をするのかしないのか。本人に癌の告知をしない上で何をどう告げるのか」
家族の苦悩が始まった。
(つづく)

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