一分の救い(ノンフィクション風の物語)⑤
肝癌の手術が終わり、麻酔も醒めてまだ数時間というのに、もう一度同じ規模の手術を行うという。
その時点で母の腹部は、胸骨の下、つまりみぞおちのあたりから右側の背中にかけて40cmほど裂かれている。
縫合したところを開くわけにはいかないらしく、その傷に並行してメスを入れるということだった。
あたりまえだが全身麻酔を施してだ。
素人が考えても、それがどれほどリスクを伴うものか理解できる。
しかも他県から専門の執刀医を呼んで手術をしたのだが、その医師はもはや病院内にはおらず、主治医が執刀するという。
ここまでは父が電話で聞かされた内容だ。
一刻を争うので、家族の来院を待って書類にサインをもらっている隙がないので、まずは開腹を電話で承諾してほしい、ということだった。
まさに絶望的な状況だ。
この状況下でも最も落ち着いている兄の運転で病院に駆けつけた。
すでに手術は始まっていたが、流石に主治医が出てきて簡単に説明を受けた。
「手術直後にどこからか出血が見られたため、開腹して確認するしかない」という。
「何が起きたのか」に関しては全く答えようとしなかった。
書類に印鑑をついたのを確認するとそそくさと手術室へ戻っていった。
家族3人はここでも会話はほとんどしなかった。
ただ、自分は覚悟じみた思いを持とうと努力をした。
しかし、後に客観的に見れば絶望的な状況であっても、自分たちの身に最悪の状況が訪れることはイメージができないものである。
期待と主治医に対する質問と今後についてを何十回と脳裏で反芻していた。
ここまで来れば「お医者様」もへったくれもない。
学生ではあるが、自分が持っている生理学の知識を全て総動員して、医者と闘う意志のようなものを抱えていた。
このときの時間の感覚はゼロに等しい。
夢を何時間かけて見ていたのか、答えられない状況とおなじである。
やがて、主治医が出てきた。
「すぐに命に関わるような出血ではなかった。処置はした。」と説明があった。
そしてこれからも血漿を中心に輸血が必要になるので、同じ血液型の人を集めておいてほしい」といわれた。
当時は、多量の血液が必要になった場合、家族が自分たちをはじめとして、血液を
提供者をかき集めて来ることが普通な時代だった。そんなやり方が、ウィルス性の肝炎やらを広げる一因になるのだが。
しかし、自分は「そんな話はあとだ」とばかりに、どの血管がどんな状態で出血したのか、1回目の手術の際はどんな所見で、予後の見込みはどうなのかを精一杯の専門用語を使って詰め寄った。
主治医は、面倒そうに聞いていたが「こいつにはごまかしはきかないかもしれない」程度の釘を刺すことはできただろう。
答えは「のらりくらり」で一向に納得がいかなかった。
国会の答弁に似ているなとつまらないことを考えた。
最後に「患者にあいたい」とつげたが、「当分目をさまさないので難しいし負担にもなるので許可できない」との返答がきた。
正直、こちらの体力も限界で、その日に弱りきって眠っている母に会うことは勇気も起きなかったので、帰宅することにした。
母は、その日から長く集中治療室で過ごすこととなる。
自分は血液提供者を募るために東奔西走した。
学生だったこともあり、効率よく集められると思ったからだ。
もちろん、父も兄も知り合いを通じて声かけをした。
こんなとき、日頃の行いがものをいう。
母はとても面倒見が良く、礼を失わない人柄だった。
ご近所付き合いも良好で、父の仕事のお得意さんからも大変評判が良かった。
おかげで「それは大変だ」と血液提供者は難なく集まってくれた。
仕事を休んで献血に来てくれる方も何人もいて、中には遠方の母の実家の近くから「お見舞いも兼ねて」と駆けつけてくれる人もいた。
「来てもらっても面会謝絶で会えない」と告げても「それでもお役に立ちたい」と来てくれた。
無難に過ごしている時には気付かないことがたくさんおこる。
だから無難ではなく「有難い」というのだろう。
こんな有難いことを引き起こしている母が、一滴の酒も呑まないのになぜ肝臓を患いこんな目に遭うのだろうか。
自分は、天を恨みたい気持ちになっていた。
(つづく