一分の救い(ノンフィクション風の物語)⑥

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2度めの手術が終わってからというもの、母の様態は急変した。
麻酔が醒めても、意識はずっとはっきりしない。
常にうなされている感じだった。
少し落ち着いているときは会話もするが、すぐに話の脈絡がおかしくなる。
「弟が訪ねてきた」ということもあった。
しかし、その弟さんはすでに亡くなっている。

点滴は、胸の静脈に刺さったままで、酸素マスクは24時間はずせない。
集中治療室とその隣の病室を行ったり来たりする日が数ヶ月続いた。
何よりも厳しかったのは、手術の際の傷口が一向に塞がらない。
肝硬変を患っている人はそうでなくても出血傾向(血が止まりにくくなる症状)にあるが、母は1日で2度も数十センチに渡りメスを入れられた。
看護師が気を使って家族に傷口を見せないで処置をする程であった。
そして、症状の悪化に伴って、腹水が溜まり始めた。
腹水は、肝臓につながる静脈(門脈)の血圧が上昇することによって、腹腔内に体液が充満し、風船のようにお腹が膨れてくる症状である。
さらに食事もほとんどできず、点滴のみの栄養補給のため、身体はどんどん痩せてくる。脚は腕のように細くなっているが、むくんでいるところだけは波打っている。
顔も痩けてきて、頭蓋骨の形がわかるような顔立ちになってきた。

もはや、いつ何が起きてもおかしくない状況であることは疑いの余地がなかった。
しかし、家族はあきらめない。
おそらく、母本人はもっとあきらめていない。

昭和50年代なかばである。
完全看護といっても、重症患者の家族は常に病室にいることが求められ、可能な限り病院のサポートをした。
我が家は父と兄で会社を経営し自分は大学生であったため、交代しながらといってもほとんどの時間私が付き添っていた。
大学の授業は、先生方に事情を話し、状況が許さないときは欠席させてもらった。
夜中の担当は自分以外にはいない。
消灯した病室と真っ暗な廊下を行き来しながら、毎日、母の足をマッサージし続けた。
そうでなくても意識が混濁している中、状態の悪いときは体中がだるすぎて眠ることができないのだが、むくんでいる足を擦っているときは何とか眠ることができたからである。
たまに意識がはっきりするときがあって、自分が横にいるのをみると、
「もう大丈夫だから帰りなさい」
と、いつも言っていた。
そんなときは廊下にでて、長椅子で横になってから病室に戻った。

集中治療室の隣の部屋は個室ではなく6人部屋であったが、手術直後の患者や最も重い部類の患者が集められている病室なので入れ替わりが激しい。
少し症状が良くなると違う病室に移る患者もいたが、すぐに戻ってくる場合もあり、また病状が急変して亡くなることもあった。

重い病は、その人の本性をむき出させる。
ことに病状が悪化したときなどは、入院時の雰囲気とは一変して明るい人が極端に落ち込んだり、優しい感じの人が家族を罵倒し始めたりすることもあった。
また、患者を取り巻く家族も急激に変化をすることも珍しくない。

母といえば、この病室から動くことがほとんどなく、手術直後の患者の数が多いときだけ、ひとつとなりの病室に動かされた。
全く嬉しくないことだが、気づけば最も病室で古株になっていた。

そして、ついに1回目の危機が訪れた。
血糖値の急激な上昇により、意識を失いコントロールができなくなったのである。

主治医は、
「親戚の方を集めておいてください」
といった。
(つづく)

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