一分の救い(ノンフィクション風の物語)⑦
主治医が親戚に集まってもらえと指示を出したのは日曜日である。
私はその日、日本武道館で柔道の試合に出場していた。
ろくに練習もできていない状況であったが、個人戦の試合にでていた。
折しも、自分の最後の試合中に館内放送が流れたそうである。
試合終了を待って、私に付いてくれていた後輩のKが、
「先輩、事務所に行ってください。お兄様から電話が入っているようです。試合中と告げたところ、そのまま待っているということで・・・」
今のように携帯電話があるわけでもなく、総合病院に折り返しの電話も難しい時代である。
私は、汗だくの柔道衣姿のまま、母の意識がなく時間の問題であることを兄から聞いた。
当然、覚悟を決めたができるだけ早く病院に駆けつけなければならない。
急いで着替えていると、先程のKが、
「自分、400CCのバイクで来ています。後ろに乗っていきますか。監督には他のやつに連絡させときます」
といってくれた。
徒歩と電車では、小一時間かかると思われたが、二輪車なら20分くらいで到着できるという。
私は言葉に甘えた。
バイクの後ろで、私の心は激しく揺れ動いた。
悲しみと、怒りと、寂しさと、後輩への感謝とが入り混じった奇妙な感じだった。
気がつくと涙が出ていた。
病院についてバイクを降り、平静を装って後輩のKに、
「本当に助かった。気をつけて帰ってくれ」
と告げるとKは、ほとんど前を向いたまま「あ、はい」とだけ答えた。
おそらく気の利いたことばが見つからなかったのだと思う。
確かにそうだ。
状況が理解できていれば「お大事に」でもなければ「きっと大丈夫ですよ」でもないだろう。
私は、大きな荷物を抱えたまま階段を駆け上がり病室へ急いだ。
親戚の人たちがすでにたくさん集まり始めていた。
父は病室に、兄は廊下で親戚の相手をしていた。
私をみると、一同がホッとしたような雰囲気になった。
「息子が間に合った」
ということなのだろう。
私は、挨拶もほどほどに病室へ入った。
父が、定期的に母に声をかけていた。
その口調は励ましに近かった。
私も、意識のない母と対面した。
別れを言わなくてはならないのかという覚悟だったのだが、その時の違和感は忘れられない。
意識はないが、母から発せられている強い気のようなものが感じられたからである。
延命状態ではなく、生気があるのだ。
「死んでない」
私は、思わず呟いていた。
父は「間に合ったな」というようなことを私にいったが、
私は「そういう意味じゃない」と答えた。
さらに、吐血したわけではなく、他に出血も見られない。
血糖値のコントロールができていない状態ということを医師から聞いた。
医師は、時間の問題といって、親戚が集まるまでの延命措置の準備をしたそうだが、
私は「母は戻ってくる」と確信していた。
(つづく)