一分の救い(ノンフィクション風の物語)⑨
母の顔に表情が戻っていった。
うなされ続けた数ヶ月が嘘のように会話もするようになった。
ある意味予想していたことではあるが、驚いたことに一度目の手術が終わって自分たち家族と対面した直後から意識を失って奇跡的に目覚めたときまで母の記憶は飛んでいる。
かといって三途の川の話をするわけでもない。
数カ月間の壮絶な闘いは母の「生きる意志そのもの」だったのだと思う。
母も壮絶なら父や兄、自分のメンタルもズタボロだった。
不思議なことにこの状況では、家族同士の支え合いはほとんどできない。
義務的な会話や医療的判断などは3人顔を突き合わせて話せるが、お互いが救われることはないのである。
また、全員が精神的に極限状態なので、それに触れることは辛さを増強するだけなのだとわかっていた。なので、自分の内面のことは一切話さない。
おのずから追い詰められていく。
だが、そのたびに救ってくれる人が現れる。
救ってくれる人は例外なく「救おう」などと思っている人ではないのだが、こちらは救われる。
いってはいけないことだが「救おうとしてくれている人」の方がよっぽどうざったい。
私がもっともきつかったとき、どうしても病室にいられないときがあった。
夕方から朝までの番だったから、夜中にメンタル崩壊しそうな瞬間が訪れることが多い。何をしても解決しないことはわかっているので、気を紛らわすしかない。
真っ暗な病院の廊下を歩いて外に出るのだが、今のように24時間営業のレストランやコンビニがあるわけでもない。
かといって夜道をただ散歩をしているのも滅入るものである。
そんな中、1軒だけ開いている店があった。
タクシーやトラックの運転手さんたちむけに食事を提供している昭和の飯屋である。
佇まいはほとんどプレハブづくりで、実年後半くらいのオヤジさんがひとりで切り盛りしていた。
食欲もないし、学生がひとりでドアをあけるのは勇気のいることだったが、他に選択肢もないので入店してみた。
気難しそうなオヤジは無口でろくに返事もしない人だった。
4人がけのテーブルが4つほどと、壁に向かって長テーブルに8人くらい座れる席があった。厨房の前にもカウンター席はあるのだが、そこにはいろいろなものが置かれていて客席としては機能していない。
そして、オヤジは厨房から出ない。
客は、一応席につくが注文をしたらできた料理をカウンターに取りに行く。
食べ終わったら、テーブルの上に食器を置いたまま勘定を済ませる人もいれば、カウンターまで運ぶ人もいた。
そんな感じの飯屋である。
初めての入店のとき私は壁に向かった長テーブルでサバの味噌煮をたべた。
いくら知らない人たちとはいえ、腑抜けた顔を晒すことはしたくなかったので、この席があるのはとてもありがたかった。
ここの灯りが有り難く、毎日ではなかったが通うようになった。